琉球紅型とは

琉球紅型の起源は17世紀~18世紀頃だと言われています。

 

 

それ以前のこの地での染め物は手描きや刷り込みなどの技法で作られていて、現代のような型染めが確立したのはこの頃だったようです。

 

紅型は主に王族、士族の衣装として使われていました。

 

王族の衣装は色も多色で、柄も大柄なものや、非常に細かく手の込んだものなど、豪華な衣装でした。


 そして、インド、東南アジア、中国、日本などの染織の影響を受け、琉球独自の染め物になっていきました。

古いインドの絞り染めのターバンにそっくりな紅型のティサージ(手拭い)や、東南アジアなどの更紗模様、中国の龍、日本の着物、などなどそっくりなものをあげたらきりがありません。

 

一方、あまり知られていませんが、町百姓などが着用した紅型もあります。

それらは色や柄などに細かい制限があり、王族士族のものにくらべ

 

大分地味なものでした。


 

こうして王府の手厚い保護もあり、数百年発展していった紅型も1879年の琉球処分(廃藩置県)により琉球王府が解体。

その後紅型工房の仕事も激減し、王府時代に首里城の周りにあった工房は新しい仕事を求めて那覇に移っていきました。

しかし昭和初期になるとほとんどの紅型工房が廃業に追い込まれました。

その後第二次世界大戦が始まり、沖縄戦の激しい地上戦で全てのものが灰になってしまいました。

 

戦後は、代々紅型を家業としてきた城間栄喜や知念積弘の二人が中心となり、紅型復興に尽力を尽くしました。何も無い時代の中、廃材などで工夫して道具を作り、布は米軍から支給された小麦粉の袋を使用したりしていました。大変過酷な状況の中で、徐々に紅型は復興していきました。

 

1972年の日本復帰後は日本の着物の一つとして紅型は作られる様になり、和装としての紅型に形を変えてきました。そして近年は和装だけでなく生活小物として多種多様な紅型が作られています。

 

いくつもの困難にも負けず先人達により伝承されてきた紅型。そんな紅型は沖縄の心そのものだと思います。

くんやが目指す紅型

沖縄 琉球紅型 くんや

現在の紅型はかつての王族士族の華やかな「首里型」とよばれるものが基本になっています。これは一般的な紅型=多色使い、カラフルというイメージです。

 

しかし庶民が着用したいわれる「那覇型」は色数も少なめで、柄も小さくて一見地味なものが多くあります。そして、この「那覇型」の中にも紅型の本質があるように思います。

 

那覇型には色柄に多くの制約があった中、華やかに見せる工夫があり、とてもユニークなものが多いです。

 


くんやはそんな那覇型も参考にし、より紅型らしいものを作っていきたいと思っています。紅型は多色使いだけではなく、地味なものもあるけれど、すべてにおいてなぜか沖縄の色と匂いに包まれています。その辺りの"らしさ"も、徹底して追求していきたい思いです。

 

加えて、くんやでは、世界中の色々なモチーフを積極的に柄に取り入れています。遠い昔の琉球人も海外の様々な模様を使い、自分達の解釈で紅型作りをしていました。染めの世界もチャンプルー文化なのです。そんな先人達に少しでも近づきたい。そして取り入れたものを沖縄のフィルターに通し、紅型でしか表現できない、他のどこでもないものを生み出したいです。

 

古典紅型の全てを穴のあくほど見つめ直し、染めてみて、先人に思いを馳せ、さらに今の沖縄を、世界を吸い込み、その時の想いで自分が作りたいものを作る。そうすれば自然と何かが生まれてくるのではと信じて、日々コツコツと制作に励んでいます。